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ハインリヒ1世 (ブラウンシュヴァイク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハインリヒ1世
Heinrich I.
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
リューネブルク市庁舎のホールの壁画に描かれたハインリヒ1世
在位 1388年 - 1416年

出生 1355年頃
死去 1416年10月14日
配偶者 ゾフィー・フォン・ポンメルン
  マルガレーテ・フォン・ヘッセン
子女 ヴィルヘルム1世
カタリーナ
ハインリヒ2世
家名 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
父親 リューネブルク侯・ヴォルフェンビュッテル侯マグヌス2世
母親 カタリーナ・フォン・アンハルト=ベルンブルク
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ハインリヒ1世ドイツ語:Heinrich I., ? - 1416年10月14日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの1人で、リューネブルク(在位:1388年 - 1416年)、ヴォルフェンビュッテル(在位:1400年 - 1409年)。寛大公(der Milde)と呼ばれた。リューネブルク侯、ヴォルフェンビュッテル侯マグヌス2世と妃カタリーナ・フォン・アンハルト=ベルンブルクの間の4男として生まれた。ヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世、リューネブルク侯ベルンハルト1世の弟。

生涯

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リューネブルク継承戦争以降リューネブルクを治めていたザクセン選帝侯ヴェンツェルが1388年に死去し、次兄ベルンハルト1世と共にリューネブルク侯となった。

ローマ王ヴェンツェル対立王に選出された長兄のヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世が1400年に暗殺されると、ハインリヒ1世は次兄ベルンハルト1世と共にヴォルフェンビュッテル侯領を相続し、殺害者達に対する攻撃を開始した。彼は暗殺を仕掛けたと疑われるマインツ大司教の治めるアイクスフェルトの町を荒らしまわった。1405年になって、ようやくブラウンシュヴァイク=リューネブルクの諸公とマインツ大司教との和解が成立した。

1404年、ハインリヒ1世はリッペ伯ベルンハルトという貴族に誘拐され、身代金を支払って解放された。その後、ハインリヒ1世はローマ王ループレヒトの支援を受けて、リッペ伯に報復をしている。また姉の夫であるシャウエンブルク家のホルシュタイン=レンズブルク伯兼シュレースヴィヒ公ゲルハルト6世が死に、デンマークノルウェースウェーデン摂政マルグレーテ1世がその遺領のシュレースヴィヒを支配下に収めようとした時、ハインリヒ1世は姉や甥達の為にシュレースヴィヒを防衛している。

1409年に次兄ベルンハルト1世と領土を交換、ハインリヒ1世はリューネブルク侯領を単独で領有し、引き換えにヴォルフェンビュッテルはベルンハルト1世が単独で領有した。1416年の死後、リューネブルクは2人の息子ヴィルヘルム1世ハインリヒ2世が相続したが、1428年に再度ベルンハルト1世と領土が交換され、ベルンハルト1世はリューネブルクを、ヴィルヘルム1世とハインリヒ2世はヴォルフェンビュッテルを領有する事になった。

子女

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1388年ポンメルンヴァルティスラフ6世の娘ゾフィーと最初の結婚をし、間に1男1女をもうけた。

1409年、ヘッセン方伯ヘルマン2世の娘マルガレーテと再婚し、息子を1人儲けた。

爵位・家督
先代
ヴェンツェル
リューネブルク
1388年 - 1416年
(1409年までベルンハルト1世 と共治)
次代
ヴィルヘルム1世
ハインリヒ2世
先代
フリードリヒ1世
ヴォルフェンビュッテル
1400年 - 1409年
ベルンハルト1世 と共治)
次代
ベルンハルト1世